今では市ではない、清水市の思い出

最近、20歳代の同僚と話をしていて、相手に私がオバさんだと印象付ける発言をしてしまった。それは、(呼)の話。私が小学校の頃は、各家に電話などなくて、近所で電話のある家に電話を取り次いでもらうのが一般的だった。なので、緊急連絡簿などの欄には、33−33××(呼)と書いてあったという話。

この33−33××は、近所の電話を持っている人の番号。電話を持っている人は、電話を保留にして「○○さーん、お電話ですよ〜」と、家まで呼びに来てくれる。昔は電話料金もべらぼうに高かったので、ダッシュで走ってきてくれたもの。もちろん電話でお話するのは、持ち主の家。考えてみればなんてのどかな時代。しかし、電話を持っている人は、ダッシュはしなきゃならないし、家の中は常にキレイにしておかなきゃならないし、化粧もしてなけりゃならないしで、さぞかし面倒だったことでしょう。

でもこの20歳代の同僚は、それはもう化石を見るような目つきで、「なにそれ!?」と言っていた。あれれれ?あなたの育った岩手県大船渡市は、私が育った静岡県清水市よりも進んでいたってこと?

清水には私が小学校3年生までいた。当然のようにクラスの半分は(呼)だったけど、別に貧乏で田舎モノな気分はしなかった。そう言えば、ちびまるこちゃんにも描かれた七夕の洪水では、床上40センチの浸水にあった被災家族。洪水の夜、夜中にいきなり起こされて車に乗せられ公民館へ。そして、その後1ヶ月は近くの旅館や大家さんの家で過ごした。

クラスで被災したのは二人で、学校を通じて市からお見舞いの品として支給されたのは、なぜか筆箱。筆箱なんて水に浸かっても使えてるよー!せめてノートくれ!しかしその後、書道や図画の時間に道具を忘れても、「洪水でダメになっちゃったのね」と先生が勝手に想像してくれたので、半年位は忘れ物し放題だったわ。