夢すらも下らない

最近、お金を拾う夢を良く見る。昨日見たのは、通勤途中の道に、まるで道しるべのように10円玉が落ちているというもの。それをホイホイ拾いながら、「給料が安い私のために、神様が用意してくれたんだな。ありがとう神様」と感謝するところで目が覚めるという寂しい内容。いくらわたしの給料が安いとは言っても、10円に事欠くような生活というわけでもないのに。しかし私の深層心理には、そういう危機感があったのだな。

先週見たのは、500円玉を通勤途中の階段で拾うというもの。なぜか目の前に交番があり、「幼い頃の私は、100円拾っただけでも交番に届けていたなあ。でもそんな事されても、おまわりさんの余計な仕事を増やすだけ。だからこの500円玉は届けないでおいてあげるわ」と、ポケットにしまったところで目が覚めた。一体この夢の内容から何を学べるというのか。正夢だとしても、500円を拾ったからってうれしくはない。いや、うれしいけど。

先週、もうひとつ見たお金がらみの夢は、100枚位の50円玉の穴に紐を通してヌンチャクのようにした武器で、渋谷を歩いているときに襲われるというもの。これは、ちょうど大沢在昌の渋谷を舞台にしたドラッグがらみの本を読んでいたからだと思うが、しかし、予想外に痛かった。あの50円玉を通して保存しておくっていうのは、よくおばあちゃんちで見た。今時、もし渋谷でそんな武器を持っているヤツがいれば、さんざんチーマー達の笑いものになっていそうではあるけど。

しかし、実は私は実生活でもよくお金を拾う。ラッシュの時に床に落ちてる100円玉を見逃した時と、雨の日、車の下にあった50円玉を見逃した時のことなど今でも思い出せるほど悔しい。ある時、何かのコラムで、「一円を拾うときに使う体力をお金に換算すると、一円以上になるので拾うだけ無駄」と書いてあった。余計なお世話よ。プラハに行った時に、一円以下の補助通貨を拾ってしまった時は「私ってつまらない人間」とは思ったけれど、モスクワの空港で超マイナーな国の1ユーロセントを拾った時は「でかした、私」って思った。